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金沢の人気観光地の1つでもある「長町武家屋敷跡界隈」。
「金沢市足軽資料館」は、長町武家屋敷通りの入り口にあります。尾山神社からも徒歩10分ほどの場所にあるので、散策がてら是非ここにも訪れてみてほしい場所です。
「金沢市足軽資料館」は、長町武家屋敷通りにあります。
金沢駅からはバスで10分ほど、ギヤマンの神門が有名な尾山神社からも徒歩10分ほどの場所にあります。
尾山神社を背に、金沢市文化ホールの横の道を長町方面へと進むと大野庄用水に突き当たるのですが、ちょうどこの辺りから長町武家屋敷通りになります。
左手に土塀があるのですぐわかります。
冬場はこのように樹木を守る『雪吊り』と、土塀を守る『こもかけ』がされてます。
寒いけど、これはこれで風情があっていいんですよねぇ。
寒いけど。
土塀で囲まれた場所に「高西家」と「清水家」という2棟の足軽屋敷が移築されています。
「足軽資料館」には、
- 高西家
- 清水家
の2棟の足軽屋敷が移築されています。
建物の中には、足軽の仕事内容や日常生活、さらにはお金事情など様々な資料や解説があり、当時の足軽の生活風景が再現されていたりとなかなかの充実っぷりです。
しかも拝観は“無料”なんですよ!
「足軽資料館」は1997(平成9)年にできたのですが、ここに移築された2つの住居は加賀藩の足軽の末裔の高西家と清水家から寄付されたもので、どちらも平成まで実際に生活されていた住居なんです。
「高西家」は、現在の菊川2丁目(旧早道町)にあり、1994(平成6)年まで住居として使われていました。
「清水家」も、現在の幸町(旧早道町)にあり、明治以降も1990(平成2)年まで住居として使われていた建物なんです。
武家屋敷とか藩主やそれなりにくらいの高い藩士の屋敷や資料、展示物は全国各地あると思いますが、「足軽」に関する建物や、「足軽」に焦点を当てた展示資料というのはなかなかないんじゃないでしょうか。
ちなみに「足軽」とは、戦闘時に駆り出される歩兵のことです。
戦国時代には弓・鉄砲の部隊を編成して活躍しましたが、江戸時代になると「足軽」は武士の最下層に位置付けられました。
では早速「足軽屋敷」へとお邪魔します。
奥にある「高西家」からお邪魔しました。
玄関は格子戸の引き戸で、木造の平家建て、切妻屋根という簡素な造りで屋根は板敷になってます。
写真だとわかりにくいですが、屋根には風で飛ばされないように重しの石が置いてあります。
屋敷の周りは生垣などで囲まれてます。
これが中級武士になると土塀で囲むことができて、玄関も門構えになるんですね。
今では足軽屋敷も風情ある建物な佇まいですけどね。
こんな雰囲気のお蕎麦屋さんとかありそう。
玄関入りますとまず、足軽屋敷「高西家」の説明がどどんとありました。
足軽って、そんなに裕福なイメージないですよね。
実際ほとんどの他藩では、足軽の住居といえばいわゆる長屋です。
しかし加賀藩の足軽にはなんと長屋ではなく一軒家!それも庭付き一戸建ての屋敷が与えられていたんですよ。
びっくりですね。
足軽でも一軒家に住んでいたのは、加賀藩が百万石の大名だから、というものもちろんありますが、加賀藩初代藩主・前田利家公がとても律儀で家臣を大切にしていたからということもあるそうです。
身分の違いはあれど家臣を大事にし、下級武士の足軽に対しても分け隔てることのないように一軒家を与えたのでは?のようにも言われてるそうで。
そして利家公の思いを代々の藩主も受け継いでいったということでしょうか。
こちらが足軽資料館に移築された、足軽屋敷・高西家の間取りです。
玄関を入るとまず正面に『玄関の間』があり、その奥に『座敷』がありますね。
客人は玄関から入りまっすぐ進み座敷へと通されるという導線が出来上がってますね。
一方、玄関入って右を見るとまず『流し』があり、『茶の間・納戸』と続いてます。
こうしてみると建物の左側、玄関入って真正面は、客人をもてなすための接客用の空間、そして右側は家人の生活空間という感じで綺麗に動線が分かれてるんですねぇ。
なかなか合理的な作り。
このように「接客空間」と「生活空間」を列構成で分けるというのが武士住宅の特徴だそうです。
今でいうと3LDKくらいな作りかな。
風呂場はないけど庭付き3LDKとはなかなか良い居住空間だなぁ。
実際、平成まで住居として使われていただけあって生活感があるというか、ちゃんとした形で残ってるものなんですねぇ。
あ、『流し』って「台所」のことなんですけど、この言い方って石川の方言なんですね。
玄関入るとこんな感じ。
手前の畳敷きが『玄関の間』で、襖の奥が『座敷』ですね。
やっぱ畳っていいですよねぇ。
『玄関』のすぐ横を見ると『流し(台所)』があります。
たぶん昔は竈(かまど)とかがあったのかなと思いますが、さすがに残ってないですね。
ただ井戸らしきものはありますねぇ。
見上げると案外天井が高い。
ご飯炊いたりするからかな。
そして玄関の左側には『厠』、トイレですね、があります。
奥を覗いてみたら昔ながらのトイレが復元されてました。
こちらのトイレは使えませんよ。
こんな感じだったよってゆーイメージですね。
まずは来賓のごとく、玄関の間を進み『座敷』へ。
説明書きにもあるようにお座敷は基本的には、接客のための部屋。
一番格の高い部屋ですね。
ちゃんと床の間も設られてます。
床の間の横の空間は仏間かな。
たぶんかつてここに仏壇があったはず。
シンプルながらも武家屋敷として必要最低限の体裁は整えていますね。
これが中級武士とかになると違い棚とか付け書院とか付属物が増えどんどん豪華になっていくわけですね。
そして座敷の奥には『土縁』、縁側ですね、がありそのまま庭へと出れます。
おそらく普段は庭へと出る木戸も空いてるのだろうと思うのですが、まぁこの日は雪が積もってて寒かったんですよ。
なのでちょびっとだけ開けてあったのかなぁと思います。
ちなみに土縁の左奥にも厠があるんですが、おそらくこちらの厠(トイレ)は座敷の横にあるので客人用の厠かなぁ。
そして『座敷』の隣のお部屋は『納戸』。
物をしまったり、昼間はおそらく内職をしたり勉強したり。
そして夜はここで寝るという、THE生活空間ですね。
広さも8畳とそこそこの広さ。
窓もあるし、土縁も続いていて庭へと出れる場所なので、庭に面した木戸を開けていれば昼間は結構明るかったんじゃないかな。
こんな感じで座敷から納戸まで庭に面したエリアには土縁が続いてました。
江戸時代は電気がないからいかに光を取り込むかはやっぱ大事だったんだろうなぁ。
でも土縁も座敷と納戸は仕切られるようになってるみたいだから、武家社会のしきたりもちゃんと踏まえた作りなんだよな。
そして納戸の隣が『茶の間』ですね。
『茶の間』の写真を撮り忘れたみたいなのですが、写真右奥が『茶の間』です。
食事を取る部屋ですね。
なので本来なら食器とか炊事や家事の道具なんかが置かれていたんじゃないでしょうか。
そして茶の間のすぐ隣が『流し(台所)』ですね。
ここでご飯を作ってすぐ隣の『茶の間』で食べる。
実に合理的な造り。
今でいうダイニングキッチンかな。
というか、家の中に井戸があるんですね。
My井戸。
『玄関の間』の左隣には『小間』という小さな部屋があるのですが、こちらはどうやら今は職員の方の休憩所になってるみたいです。
うっかりリアルプライベート空間を覗いてしまったかな。
外から見た足軽屋敷。
庭もあって生垣で囲われていて、結構広いんですよね。
「金沢市足軽資料館」なにがすごいって、足軽に焦点を当てて、足軽屋敷を2棟も移築復元してるのもすごいんですが、展示されている足軽に関する資料の充実っぷりもかなりのヤバさです。
しかも無料なんですよ!
正直ちょっと舐めてましたよ。
だって無料だし、足軽だし、いうてもそんなにね?、と思っていたらまぁびっくりするくらいの充実ぶりです。
展示で紹介されてる内容の充実ぶりったら、もうこれまとめて本にしてくれてもいいくらいよってくらい濃いです。
上の写真では足軽の住居、接客と生活空間を分ける武士住居についてとか、
加賀藩の足軽屋敷の建坪は大体20〜25坪くらい、
足軽住居が明治以降の一戸建て住居の原型になっていた、などなどといったことが書かれてます。
加賀藩の足軽が住んでいたエリア・足軽組地は、53.9ha。
金沢城下町全体から見ると7.4%ほどなんですが、戸数でいうと2689戸と武士の中では最も多いんですね。
そもそも足軽が登場したのは鎌倉時代なんだけど、広く知られるようになったのは戦国時代になってから。
秀吉の頃までは、戦で手柄を上げれば足軽も出世できたので農民の多くが足軽を志願したわけです。
ところが江戸時代に入り、泰平の世になるとそもそも戦もなくなりますし、そんなに武士もたくさんいらないというわけで、足軽たちはどんどんリストラされちゃうんですね。切ない。
とはいえ全く無くすわけにもいかないので、残った少人数の足軽は、武術の訓練や武具の手入れという戦に備えた本来の役目はもちろん、他にも門番とかお供とか、武家の補助的な仕事もこなさないといけなくなったんですね。
江戸時代の足軽、なかなか大変。戦はないけど。やることいっぱい。
一口に足軽といっても、足軽の中でも職務が分かれてるんですね。
初代藩主の頃は
- 御弓之者
- 御鉄砲之者
だけだったのが、5代藩主・綱紀の頃に大規模な編成替えがあったそうで、軍事組織・行政組織合わせて13の職務があったらしい。
ちなみに加賀藩の武士階級は、加賀八家を筆頭に6つの階級に分かれてました。
- 八家(はっか)……8家(禄高11,000石~50,000石)
- 人持組(ひともちぐみ)……68家(禄高1,000石~14,000石)
- 平士(へいし)……1,511家(禄高50石~2,000石)
- 与力(よりき)……190家(禄高60石~300石)
- 御徒(おかち)……3,802家(禄高50俵~150石)
- 足軽(あしがる)……5,382家(禄高20俵~25俵)
単純に数を足すと、藩政期の金沢には10,961家の武家があったんですね。
武士の居住エリアの外側には町人が暮らしていて、さらにその外側には農民が暮らしていたんですね。
明治期は金沢は10万人以上の人口がいたらしく、東京・大阪・京都・名古屋に次ぐ全国第5位の大都市だったらしい……
足軽の給料は年間20俵〜35俵。
25俵が12.5両なので現在でいうと約100万円。
さすがに年間100万円ではいくら江戸時代でも厳しい。
というわけで多くの足軽は、公務がないときは家族と家で内職に励んでいたと。
加賀藩の足軽の主な内職は、灯籠や張り子、起き上がりなどの玩具を作ることだったらしいよ。
今でも加賀の郷土玩具で張り子の虎とか八幡起き上がりとかあります。
ちなみに石川県のゆるキャラ?の「ひゃくまんさん」は、加賀八幡起上りをモデルにしてます。
服装も身分や職務の内容により細かく決められていたらしい。
まぁだからこそぱっと見で相手の身分や役職などがわかるんでしょうけど。
足軽資料館、先程の充実した資料に加えて、足軽に関するちょっとしたトリビアを紹介した「足軽ひとくちメモ」もあるのです。
これがまたおもしろくて。
足軽にお召しがあるときは前日に使いのものがやってくるそうだが、その使いが「玄関」から来るか「勝手口」からくるかで、良い知らせか悪い知らせかがわかるという慣習があったそうな。
聞く前に良い知らせか悪い知らせかがわかるのは、良いような悪いような。
まぁ心構えはできる、かな?
加賀藩のお家騒動「加賀騒動」、江戸3大お家騒動の1つで、歌舞伎や浄瑠璃にもなってますが、その主役はなんと足軽出身だったとか……
江戸勤務の方が加賀にいるより楽で、金銭的にも良かったらしく、足軽の中には喜んで江戸に行く足軽もいたとか。
足軽は一代限りなんだけど、ほとんどは子供が跡を継いだり、
でも後継がいないと足軽株を売りに出すらしい。
つまりはお金次第で足軽になれた……
足軽組地は「桃の組」と呼ばれていた、とか、
へぇ〜というトリビアが満載です。
「金沢市足軽資料館」は、長町武家屋敷にあり、加賀藩初代藩主・前田利家公を祀る尾山神社まで歩いて10分ほどの場所にあります。尾山神社の境内を抜け、鼠多門橋を渡ると金沢城公園へと続いていくのですが、是非とも金沢城、尾山神社とともに、足軽資料館を訪れてみてはいかがでしょう。
当時の足軽の生活ぶりが見れたり、面白い発見があるかもしれませんよ。
次回はお隣にある足軽屋敷「清水家」を訪れます。
名称 | 金沢市足軽資料館 |
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所在地 | 〒920-0865 石川県金沢市長町1-9-3 |
開館時間 | 9:30~17:00 |
休館日 | 無休 |
入館料 | 無料 |
駐車場 | なし |
アクセス | 「香林坊」バス停から徒歩約5分 |
問合せ | 076-263-3640 |
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