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キリシタン大名として有名な高山右近。
天文21年(1552年)に大阪に生まれ、元和元年(1615年)マニラで64歳で亡くなるのですが、37歳から63歳までの26年間、生涯のほぼ3分の1は金沢で過ごしていたのです。
大河ドラマとかで出てくる高山右近は、金沢に来る前の大阪時代の頃が多いので、あんまり金沢とゆかりが深いことを知らない人も多いんですよね……
なので、金沢に残る、高山右近の足跡を、自由気ままに、まぁ勝手に巡ってきました!
金沢城を中心にぐるっと回る感じで巡れちゃいましたよ。
スタートはやっぱり「カトリック金沢教会」ですかね。
この教会自体は明治期に建てられたのだけど、教会内には
- 高山右近のステンドグラス
- 高山右近の聖遺物
なんかがあるのです。
【金沢】キリシタン大名・高山右近の聖遺物がある「カトリック金沢教会」ステンドグラスも美しいよ教会前にある高山右近の銅像の足元には、高山右近の屋敷跡にあったと言われてる「南坊石」もありました。
しかも教会内には、高山右近に関する資料がたくさんあるので、まず高山右近めぐりを始めるにあたって、ここ「カトリック金沢教会」で高山右近に関する知識を入れておきましょう。
【金沢】キリシタン大名・高山右近についての解説がすごい「カトリック金沢教会」「カトリック金沢教会」のすぐ近く、言わずと知れた「金沢21世紀美術館」。
ん?美術館ですやん、金沢の超有名観光地ですよね?
と思われるでしょうが、実はここ「金沢21世紀美術館」は、高山右近が金沢に来て最初に住んだ屋敷跡があったと言われてる場所なんです。
敷地内には特に高山右近の屋敷跡を明示するものは特になかったんですけど。
実はもう1箇所、「石川県立美術館」のあたりが右近の屋敷跡だったんじゃないかとも言われてます。
というわけで、せっかくなら藩政期の頃の本多家家臣通勤路?を通って「石川県立美術館」へと参りましょう。
ルート的には、中村記念美術館の裏からのびる、
- 美術の小径
- 歴史の小径
を通ります。
どちらも入り口は同じで、途中でルートが分かれます。
最終的にはどちらも「石川県立美術館」の裏手に出ますよ。
美術の小径
「美術の小径」は、辰巳用水が流れ落ちる滝のそばの散策路を通るルート。
水の流れ落ちる音が気持ちいいですよ。
【金沢】「美術の小径」は金沢の中心にありながらも自然豊かで気持ちのいい散策路歴史の小径
「歴史の小径」は、この地に広大な屋敷を構えていた加賀藩の重臣・本多家の上屋敷と中屋敷をつなぐ道を復元整備した遊歩道。
崖沿いに残る本多家の門跡や石垣をみることができます。
【金沢】加賀藩筆頭家老本多家の遺構が残る「歴史の小径」は金沢21世紀美術館近くの中村記念美術館と石川県立美術館を結ぶ遊歩道「美術の小径」or「歴史の小径」を上り、「石川県立美術館」裏手へと出ると、「右近の屋敷跡」の看板がありました。
まぁ、「石川県立美術館」もしくは「金沢21世紀美術館」あたりに高山右近の屋敷があったということですね。
どちらにしろ金沢城のすぐそばなので、かなり重要な客将だったのは間違いないですね。
キリシタン大名として有名ですが、高山右近、築城の名手でもあり、茶の湯や俳諧などにもたけた人だったらしいので。
実際、金沢城の修築や加賀藩の町づくりにも携わってますし、高岡城も作ってるんですよね。
兼六園下のバス停近くにある「切支丹寺跡」。
切支丹寺はいわゆる教会ですね。南蛮寺とも言います。
なんと加賀藩の切支丹寺は、金沢城のすぐそばに建てられてたんですよ!
高山右近は、豊臣秀吉の出した伴天連追放令で、大阪を追われることになるのですが、各地を転々とした高山右近を自身の藩に招いたのが、加賀藩初代藩主の前田利家です。
前田利家の招きを受けた右近は、碌(いわゆる給料)は少なくていいから、キリシタンの寺を建てさせて欲しいと言ったんですよ。
利家さん「OK、切支丹寺建てていいからウチおいで」ってなったんですね。
で、金沢城のすぐそばに建てたと。
利家太っ腹〜。
クリスマスパーティなんかも開かれたりしたそうですよ、江戸時代に。その場所は、どうも現在の甚右衛門坂あたりらしいですけどね。
【金沢】かつて金沢城のそばにあった切支丹寺。今は看板が残るだけこの切支丹寺、どうやら前田利家の娘で、豊臣秀吉の養女・豪姫が金沢に戻るときに建てたみたいです。
豪姫もキリシタンでして、宇喜多秀家の正妻だったのですが、関ヶ原の戦いで敗れて、旦那は島流しに。一緒に行くことが許されなかった豪姫は、生家に戻ったわけです。
その豪姫が住んだお屋敷も金沢城のすぐそばだったそうです。
【金沢】豊臣秀吉の養女で前田利家の娘でキリシタンだった豪姫の住居跡は金沢城黒門すぐ近く金沢城の正門・大手門!
実は高山右近の指導により、西丁口(現在の黒門)にあった大手門を尾坂口、現在の場所に移したんだそうです。
高山右近は、徳川幕府が出したキリシタン禁教令により、金沢を出てマニラへと行くことになるのですが、加賀藩には内藤如安など多くのキリシタンがいたんですね。
彼らが、金沢を出発する際の集合地がここ、大手門でもあったという。
なんとも皮肉な話です。
高山右近はその後、マニラの地で生涯を終えます。
ちなみに、右近の死後、右近の家族はマニラから密かに帰国し加賀藩に帰っていたらしいです。
【金沢城石垣巡り】巨大な鏡石が見どころの「大手門」は藩政期の正面玄関豪姫の屋敷跡があった「黒門前緑地」からしばらく先へ行った場所にあるのが「甚右衛門坂」。
「甚右衛門坂」は金沢城内の土橋門へと続く坂道ですが、現在は関係者用通路になってます。
江戸時代この辺りには、伴天連、宣教師らの屋敷が集まってたそうです。
内藤如安や浮田休閑といったキリシタン大名も、高山右近を慕って加賀藩に来ていたらしい。
右近の影響力、ハンパないですね。
【金沢城めぐり】甚右衛門坂とキリシタン大名高山右近ゆかりの伴天連屋敷跡旧金谷館前に、高山右近の第二の屋敷跡があったらしい。
尾山神社の近くにある、石川県文教会館の隣にある旧金沢貯金事務センターの場所がそうらしい。
特に右近の屋敷跡の看板はなかったけど。
慶長7年(1602年)前後頃に、最初の屋敷(21美 or 県美)からここに移ったらしい。
甚右衛門坂も近いので、まぁ甚右衛門坂から文教会館あたりにキリシタンが集まったんですね。
尾山神社前には、金沢城の外堀として高山右近が造った「西内惣構跡」があります。
尾山神社前にある西内惣構跡の案内板。
西内惣構は金沢城下の防御のために、加賀藩2代藩主・前田利長が高山右近に造らせたもの。
用水の位置は変わってないそうで、石積みも現存するものをなるべく保存してるそうです。
以上、勝手に金沢の高山右近をめぐる旅でした。
ちなみに勝手に右近めぐりをするにあたって、金沢市の観光ガイド「高山右近と金沢~ゆかりの地~」を参考にさせてもらいました。