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こないだ、散歩してたら見つけたお寺に貼ってあった言葉。
「タイ・タラ・ブリは往生のさまたげになる」
……えぇっ!?
なんですって!?
ってびっくりしたんですよ。
びっくりしますよねぇ。
もちろん魚のことじゃなかったんですけどね。
タイもタラもブリも美味しいですよね〜。好きですよ。
鯛も鱈も鰤も。
なのに食べたら往生できないの?
と思ったら「魚」のことじゃなかったんですよ。
まぁそうですよね。
でもこの字面で並んでるとそう思いますよねぇ。
上手いこと言いますねぇ。
まずここで出てくる「タイ」。
これは、
- ああなりたい
- こうなりたい
- ああしたい
- こうしたい
というような未来への迷いだったり、不安だったり。
まだかなっていない願望とか。
未来にいっぱい望み過ぎな状態ですね。
次に「タラ」。
「タイ」は未来のことだったので、「タラ」は、
- あの時、ああなっていたら
- あの時、こうなっていたら
- あの時、ああしていたら
- あの時、こうしていたら
というような、もう起こってしまってどうにもならないことに対して、いつまでも執着したり後悔したりしてることですね。
「タイ」が未来、
「タラ」が過去、
えーと、そしたら「ブリ」は、
- わかってるよー
- 知ってるよー
という「知ったかぶり」の「ブリ」だそうです。
なるほど。
ついついわかったような気になったり、知ったつもりになったり……しますねぇ(・・*)ゞ
そして、「往生」。
往生際が悪い、とか、大往生という言葉のイメージがあるので、困ったとか、亡くなるという意味かと思ってしまうけど、違いました。
「往生」は仏教の言葉で、
- 「生かされて往く」と読む往生
- 「往って生まれる」という意味の往生
があるらしい。
「往って生まれる」は、極楽へ「往って」仏に「生まれる」ということらしいので、死ぬということなんだけど、誰でも極楽へ行けるわけじゃないと。
ちゃんと「生きた」人が極楽へ行けるらしい。
もう1つの「生かされて往く」。
これは生きてる時に、辛いこととかがあっても「生」きぬいて「往」けー、みたいな。
精神的に強く生き抜けみたいなことですかね。
なので、「タイ・タラ・ブリは往生のさまたげになる」の「往生」は、今、ここを力いっぱいに生きる!という感じで使われているんだそうです。
「タイ・タラ・ブリは往生のさまたげになる」とは、つまり、
過去とか未来とか、自分の思いにとらわれず、今をちゃんと生きる。
ということになる。かな。
過去に囚われてうだうだせず、今をちゃんとしろと。
今をちゃんとするから未来が決まると。
ウダウダしてるとまだ起こりもしてない未来のことに漠然とした不安とか焦りが募ってしまいますもんね。
まぁ、結論。
ちゃんとしろ!ってことですね。
あ、耳に痛い……。(´・ω・`)
ちゃんとしよー……
「タイ・タラ・ブリは往生のさまたげになる」という言葉は、石川県の能登に伝わる言葉だそうです。
ちなみに石川県能登半島は浄土真宗の信仰が篤い地域らしく、この言葉も親鸞聖人の言葉からきているようです。
親鸞聖人かぁ、学校で習った程度の知識しかないな。
とりあえずこの辺から読んでみようかな。
ただこれもかなり面白そうだな。
すでにタイトルで惹かれる(笑)
ちなみに、お寺に置いてあった「タイ・タラ・ブリは往生の妨げになる」の言葉の説明に幽霊についても書いてありまして。
幽霊のちょこんと前に出した手。
これは、
- ああなりたい
- こうなりたい
という未来への不安。
おどろおどろしい長い髪。
(あ、髪がないっ……)
- ああなっていたら
- こうなっていたら
という過去への未練。
足がない。
これは事実に足がついていないということで、自分の思いに振り回されている姿。
なんだそうです。
言われてみるとなるほどぉ〜ですね。
まさかこんな幽霊の絵にまで意味があったとは……。
こうしてみると、幽霊の絵は、まさに
タイ・タラ・ブリに囚われて往生できてない様
ですね。
ほほ〜、深い。
まぁ過去や未来への不安な思いに振り回されず、ちゃんと地に足つけていきなさいよってことですね。